人間としてコスパ良過ぎ問題
まずこの考えに至った変遷を大まかに書く
詳細は全て省く
なぜならば頭のおかしい人間だと思われそうなのと、自分でも書いてて気が狂いそうになったので。
- マジ生きてる意味がわからない問題。死にたくはないけど、生きたくもないから、急に全てを消滅させる光が降り注いでみんなと一緒にスッ……っと消えたいと思ってた。
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- じつは生きている意味はあった説浮上。俺が生きているということこそが目的の達成であるという説。人生における問題とは、じつは大した問題ではない。何故なら既に達成されているから。俺の能力がどこまで低かろうと社会に適合してなかろうとゴミでクズでバカの三重苦だろうと俺の人生が喜びで溢れ、世界はこんなにも美しく感じられるのは、俺が既に満たされている状態だったからなんですよね。という幸福的で光属性的な感じにこの間まで思ってました。
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- じつは俺はコスパ極めてる説浮上。
コスパ極めてる説浮上とは。
上記の考えは要するに「人生の目的は、人生が始まった瞬間から既に完了している。だからわれわれは現世でするべき本当のことなど無く、ただやりたいようにすれば良い。それこそが最も必要だったことだからである」ということである。
ところで俺はびっくりするくらいクソ雑魚である
雑魚の定義が難しいのでしないが身体的、精神的に「人間」と呼ばれる存在が獲得しているであろう能力が悉く欠けている。
詳細は面倒なので書かないが、例えばこの面倒くさいという怠惰において俺の右に出る存在はいないだろう。まず努力とかしない。向上心が無いと言った精神的怠惰。これを原因として人生において致命傷を与えるレベルでさまざまな能力が無い。人生をナメてると形容されがちだが、真実は人生がめんどくさいなのである。次に身体的怠惰。少し理解が得難い表現だが、これは例を挙げて説明する。例えば座るという行為が面倒くさい。以前「座椅子に座って一日中ゲームしてて〜座椅子モフモフ過ぎて暑いんだよね〜(笑)」という世間話をした時に「なぜ座椅子に座っているのか?」という哲学的な疑問を投げかけられ、問答の末に「座椅子には背もたれが存在しており楽だからである」という結論を出した。その結論を聞き「お前には座る力も無いのか(辟易)」という素朴な感想を述べられ、この身体的怠惰の存在に気がついた。つまりそういうこと。精神的なだけでなく俺の身体的活動もまた怠惰によって蝕まれているのである。
これはほんの一例に過ぎないが俺はこのように、致命的に全ての能力を持たずして人生がいよいよ詰みの段階へ入っているわけである。
そしてなんとそういった精神的な身体的、精神的能力とは別として、現実世界でも俺は何も持っていないのだと気がついた。
俺の所有物と考えてもいいのは所持金8000円とNintendo Switch、それにまつわるものと数冊の漫画、気まぐれで買ったシャツ、本、以上である。
残りの殆どのものは家族兼用である。
コスパ良過ぎか
マジで。マジでコスパ良過ぎか。
人間は「人間」というニュートラルな状態を出発点としてさまざまな人生を送る。そこで個人の能力や意思、出身や家族、そして運などが人生を彩っていくことになるだろう。その中で私の人生シンプルイズベストのカス。生まれながらに満たされていて、だからこそほかに何も無いのだ。能力も物も。
私の考えを振り返ろう。
まずは「生きている」という状態が目的であり、私はこの状態で既に「果たすべき大義」が達成された満ち足りた状態である。だからこそ人生においてなし得なければならないことなど何事も無く、強いて言えば今私がやっている全ての行為が「望まれた行為」である。
これは逆に言ってしまえば生きる事とはほとんど空虚なものであるとも言える。実際は満ち足りているため空虚では無いのだが「生産性」、「実りのある」なんて言葉が気になる方は多いのでは?
そしてそのような視点から見ると私という存在はあまりにも「空虚」そのものでは無いだろうか。
感動した。あまりにも「空虚」な生き方ができるのに私は適し過ぎているのである。まるで機能性を追求して余分なパーツの一切を組み込まれなかったかのような命である。
一つここで注意が必要なのだが、私は悲観的にも自笑的にもこのことに対して思っているわけではないということである。
生きるために命を授かりそして全ての「実りある」人生を送る能力を欠いているということは言い換えるならば「コストパフォーマンスが最高に良い「命」」と呼べるのではないだろうか。低コストでサクッと大義を果たしてしまうのは、能力が低い分、その小ささの身に余る喜びを得ているようでおトク。
ガチのマジで多分誰にもわけわからんと思うけどそういうことです。
正直自分でもわけわかりません。もしかしたら頭おかしくなってるかもしれません。
時々こういう真理が見えます。
まあぶっちゃけちゃうとどんなゴミクズでも見方を変えれば理由は作れるということでしょうか。死にたいほど無力でも視点を変えれば実は
世界は喜びに満ちていて、あとは適当にやっていい感じに自分が納得できればいい感じになると思います。
世界が内的存在か外的存在かなんて大した問題じゃないと思います。どっちにしろ自分の好きなようにできるので。
本当に頭がおかしい人間かと思われそうなので今日はもう寝ますが、人生詰まったら視点を変えれば余裕でパリピなれます。以上です。